天宮さくらの気随記

ふと誓ったり想ったり笑ったりな天宮さくらのキロク

第3記 横顔と雨の予感

 先日、東京都美術館の「クリムト展」と、パナソニック留美術館の「ギュスターヴ・モロー展」に行ってきた。はるばる山口から東京への長距離旅行。念願だった作品たちを見ることができて、ものすっごく嬉しかった。その嬉しさをずらずらと書き連ねることはできるけれど、それはまたいつかの機会に。

 今回一番印象に残った作品は、「クリムト展」で展示されていた「ヘレーネ・クリムトの肖像」だ。淡い色彩と柔らかい筆跡でヘレーネ・クリムトの横顔が描かれている一枚。印刷物とはまったく違った印象で、現物を見る贅沢を堪能させてもらった。

 どうしてこの一枚が一番印象に残っているかというと、その横顔の少女にときめいたから。絵のモデルとなったのは画家グスタフ・クリムトの姪。歳は6歳。少女の愛らしさがぎゅっと詰まっているけど、彼女の目線はこちらにはない。私がふと気になって彼女を見た一瞬、のような感覚を覚えたのだ。

 私には甥っ子がいるけれど、甥っ子と目線を合わせることは少ない。私が振り返ったタイミングで、甥っ子はどこか遠くを見ているのだ。この絵を見た感覚は、その甥っ子を見ているような感覚に近かった。見れるのは視線が合う子供ではなく、その横顔。その片思いな感じが、印象に残った。

 

「可愛い横顔を見たなぁ」だなんて思って美術館を出たとき、ふと「私の横顔ってどんなだったっけ?」と気になった。さすがに「ヘレーネ・クリムトの肖像」のような可愛らしい横顔ではないだろうけれど、見れないものではないだろう。「自分が思っている以上に可愛い横顔だったらどうしよう」だなんてドキドキしながら家に帰って、ああだこうだと鏡の前で苦戦して見た横顔は、首回りにぶよぶよな肉をつけたものだった。

「なんてことだ! いくらなんでもこれはひどい!」と自分の日頃の生活の悪さは棚に上げて腹が立った。どこかに少女の残り香的雰囲気くらい残っていてもよさそうなものなのに、あるのはシワと肉。純粋さは失われ、輝きも濁っている。「こんな顔だから日々の生活に張り合いがないのかしら」と不安になった。

 さらば私の青春。ようこそ私の肉。ああ人生って辛い。

 そんなことを思いながら、梅雨がやってきた。

 

 例年、「この夏は異常気象です」と天気予報で同じことを繰り返している気がする。今年の異常気象は、梅雨が遅かった。梅雨入り前の温度差もヘンだったけれど、まさか梅雨入りが例年よりも一月遅れるとは思わなかった。おかげさまで庭の紫陽花はシワシワの花で、汚いったらない。

「早く梅雨きて夏にならないかなぁ」だなんて梅雨入り前は思っていたけれど、梅雨になればなったで文句ばかり出てくる。湿気で天パはぐるぐるだし、雨で洗濯物は乾かないし、通勤に一苦労。買い出しも大変だし、肌がベタベタして気持ち悪い。

 例年、梅雨がきて欲しいと思う理由は、早く夏を迎えたいだけだった。

 けれど、今年の梅雨入り前は少し違った。梅雨入りが一月遅れていたからかもしれない。仕事帰りにふと、ワクワクするような予感がしたのだ。

「あ、梅雨がくる」

 その予感は的中で、次の日から梅雨入りした。

 あの予感の瞬間の気持ちは、忘れていたトキメキだった。雨が降るぞ、とウキウキしながら傘を持って出ていた子供の頃。雨のむわっとした匂いを思い出して、傘をさして歩く自分を想像しながら雨を待っていたあの頃。あのトキメキに近かった。

「ああ、私の首回りには醜い肉ばかりついて、おばさんの横顔になってしまったけれど、心はまだ少女の部分が残っていたんだ」

 梅雨入りの予感がした日、首回りの肉をぷにぷにとつまむと凹むが、自分の純粋さは全部なくなったわけではないことを知った。はるばる東京まで遠出して、絵を見に行ってよかったと思う。

 少女である自分に嬉しさを抱きながら、雨が降る音をしばらく聞いた。