天宮さくらの気随記

ふと誓ったり想ったり笑ったりな天宮さくらのキロク

第4記 学ぶことを考える

 私はものを知らない人間だ。一般に常識と言われていることを理解せずに過ごしてきた。興味や関心を抱かなかったから、そんなことになったのだと思う。だから「どうしてそんなことも知らないんだ」と親や旦那に呆れられることが多々ある。

 なら、興味関心を抱いたことは深く知っているのかというと、そういうわけでもない。飽き性なのだ。深く知る前に飽きてしまって、知ろうと努力することを怠ってしまう。深い洞察力や知識を持つ人に憧れはするけれど、そうなろうと頑張れない。表面的な知識ばかりを集めて、なんとなく世の中を生きているのが私だ。

 

 私のような人は、世の中の大多数だと思う。一昔前なら、知りたい情報は新聞や雑誌、本などを読み込んで得るものだったから、必然的に深い知識を得ることが可能だったのだ。けれど今は、スマホでちゃちゃっと検索して、欲しかった情報だけを知ることができる。欲しかった情報の過程には興味を抱かないのだ。また、その情報を基に何かを考える、ということもしていない。

 瞬時に欲しい情報にアクセスできることを否定はしないけれど、そのことによって深く学ぼうという努力を失ってしまったように思う。

 

 表面的な知識だけを集めることが、どうしていけないことなのか。それで生活できるのなら、それでいいじゃないか。そういう意見を持つ子供を、この間ネットで見た。彼の主張は、「困ったらネットで検索すれば事足りる。だから勉強は必要ない」とのことだ。学校に行きたくないからそう言っているのかもしれないが、私のような知りたいことをネットでささっと検索して終わらせてしまう大人は、彼の主張を笑えないと思う。

 なぜ表面的な知識だけではいけないのか。それは、視野が狭くなるからだと私は考える。刹那的な知識の蓄積だけでは誤った判断を下すことになるかもしれない。差別的・偏見的な物の考えをしてしまうかもしれない。一度ネット上で主張したことは永遠に消されることがないというのに、言葉を紡ぐにはあまりにも浅はかな知識しかないのは、とても危険だと考える。

 どうして深く学ぶことを、私たちは怠ってしまうのだろう?

 

 ときどき本棚から出しては読む本がある。新潮文庫の『人間の建設』だ。去年の夏の文庫フェアのときに本書の存在を知り、それ以来、少し考えたくなったら本書を読むことにしている。

『人間の建設』は世界的数学者の岡潔氏と批評家の小林秀雄氏による対談、というよりは雑談をまとめたものだ。芸術や宗教、物理学や数学と幅広く話をしている。知識の足りない私にはわからない部分も多々あるが、それでも二人の雑談には多くの気づきがある。

 最初の四ページに「学問をたのしむ心」と題して、学問とはどのようなものであるかが語られている。学問というものは面白いものであるはずなのに、学校では学問とはむずかしいものなのだと教育している。そこが、学問をする価値を低くしてしまったのではないか。そう、二人は話す。

 この箇所を読んで、私は現状に納得した。学びは大変なもので、時間がかかる。時間がかかればかかるほど、遊ぶ時間がなくなってしまう。とりあえず当座をしのげばそれでいい、となって、むずかしいから面白いに転換する体験を逃してしまうのだ。

 むずかしいから面白いに転換した体験をした人は、深い洞察と知識を持つことができるのだ。

 

 インターネットの普及に伴い、個人のキャラクターが画一的になった気がする。それもまた、深い洞察と知識を持たない人が増えたことと関係があると私は考える。学びを体験したことがない人が目立とうとするならば、バカになってアホをするしかないのだ。けれど、バカをした人が長く人の役に立っているのを、私は知らない。

 学問とは面白いもの。そのことを体験できるよう、努力したいと思う。世の中の役に立てる、誰かのために生きていける人になるためには、まず学問だと思うのだ。

 

人間の建設 (新潮文庫)

人間の建設 (新潮文庫)